カルテ1:縛る女25

「お母さん・・・・?」
「ごめん、ごめんなさい・・・っ、許して・・咲子っ」そういって泣き崩れる母を前に咲子は渡部の言葉を思い出す。「内田さん、許したものがちですよ。あなたが許せない心を持っているうちはずっとそれに縛られたままです。騙されたと思って自分からもう一度歩みよってみませんか?」

ーーこんなに自分の母は小さかっただろうか・・・肩を震わし嗚咽をもらして泣く母の姿を映画でも見ているような気分で見つめる。自分の脳裏にあった母の姿とは異なる姿に憐憫を覚えた。自然に口から言葉がこぼれる

「私も・・・ごめんね・・お母さん・・」二人は互いに抱きしめあったまま無言で涙で頬を濡らした。じんわりと温かいものが咲子の心に広がる。そうか・・許すことでこんなに自分が楽になるのだ。憎しみが自分の心をどんなに苦しめていたのかを痛感する。先生が言っていたのはこういう事・・・?

次の日、飲み明かした男性陣は手を繋いだまま眠りこける母娘の姿を見る事となる。

それから数ヶ月が過ぎた。本橋さんは、もう一度じっくりと内田咲子と話し合い、納得した上で彼女との関係を終わらせた。その後共依存の症状も成りを潜め、精力的に仕事に没頭しているようだ。ついこの間、新しく出来た彼女を連れてオフィスを訪れた。同じ職場で働いているという彼女はおっとりとした感じの良い女性だった。彼の運命の女性は意外と近くにいたという訳だ。しっかりと前を向いて新しい未来へと動き出そうとしている本橋さんに私はエールを送った。喜ばしい知らせを受けるのもそう遠くはないかもしれない。

藤堂氏は、彼が言った通り、一度婚約を白紙に戻し、もう一度内田咲子と向き合って交際をはじめた。まだまだ、情緒が不安定になる事はあるみたいだが、彼女自身も自分を偽る事を辞め、酒に溺れたり過剰に体の関係を求め安心したりする事は無くなって来ているようだ。
内田咲子とその母美津子は月に1回、続けてカウンセリングを受けるためやってくる。母娘の仲も随分と落ち着いて来た。藤堂氏もたまに定期報告やアドバイスを受けに、顔を出す事がある。彼によると二人で実家の方へもちょくちょくと顔を出しているようだ。
家族の協力と理解あるパートナーを得た彼女を幸せだと思う。もし彼らが将来結婚する事になったとしても、今度はお金や上辺だけの物事に囚われない関係を築いて行って欲しいと心から願う。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

今回、関わった件については、随分と喜ばしい結果に至った方だが、これに似たほとんどのケースの場合、満足のいく結果が得られる場合が少ないのも事実だ。私はデスクの上に足を投げ出し深く椅子に腰掛ける。十年、十五年前と比べても、驚くほどこの国の人間は病んできている・・・・そう思わされる。毎年自殺者や精神障害を訴える者達の数は増える一方だ。

私は本棚にあった一冊の聖書を取り出し開いてみる。これはアメリカにいた頃、友人から貰ったものだが、日文と英文が対比してある一冊だった。ぺらっと最初のページをめくる。私の目に飛び込んで来た一節に目を留める。「Let us make human beings in our image, make them
reflecting our natureー我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう」神はご自身に似せて人間を創られたという。もしそれが本当だとしたら、この私たちが神の望んだ姿だと言うのだろうか・・?神の形・・そして人間の本来あるべき形とはどういったものなのだろうか。私は目を閉じて終わる事の無い思考の海へと身を委ねる。人間は考える葦とはよく言った物だ・・・。

「センセ、コーヒーが入りましたよ。」また三村君が苦いコーヒーを持って部屋に入ってくる。私は聖書を閉じデスクの脇に置くと微笑んで礼をいう。
「ありがとう、三村君・・。」
また今日も新しいクライアントとの1日が始まろうとしていた。

         前のページへ  / 小説Top / 次のページへ