カルテ1:縛る女17
リストカット・・と言う言葉は現代社会の中でよく聞かれる言葉になりつつある。その症例は軽いものから酷いものまで、もちろん理由も様々だ。だが、どちらにしろ自分を傷付ける行為は自分だけでなく周りをも巻き込みながら大きく暗転して行く。昨日彼女が酔って寝ている時に脈拍を確認した際、幾つかの小さな傷と大きめの傷が出来ているのを見た。小さな傷はナイフで傷をつけたというよりも自分の爪痕に近い。随分と完治してきているようだったが、同じところを何度も傷つけたのだろう、何カ所かは深くえぐれていた。
「見た・・・んですか・・」息が荒くなり内田さんの目の焦点があわなくなっている。これ以上プレッシャーを与えるのは良くない。私はそっと彼女の頬に手を添えるとゆっくりと深呼吸するように促す。彼女の額には冷や汗が浮き出ていた。
「すみません・・こんなプレッシャーを与えるつもりはなかったのですが・・。」そういって私は三村君に持ってきてもらった一杯の水を彼女に差し出した。彼女はそれを一口飲むとコップを握りしめたまま呟いた。「最初は・・こんなはずじゃなかった・・・」
「え?」
「私が何をしても両親たちは私の事を見てくれなかった・・・いつも兄の事ばかり。私がいくら勉強を頑張ろうと、賞を貰おうと、あの人達の関心は私には向けられなかった・・・。何かというと兄ばかりを優先し、兄の言う事ならなんでも聞くのに私の事は・・っ
・・・だから最初に傷をつけてみたわ。そうしたらちょっとは私の事を見てくれるかもしれない。でも、、みっともない真似をするなと怒られた。
あの家に私の居場所なんて最初からなかったのよ。じゃあ、出て行けばいい。私は大学を出て直ぐにアパートを借りた。今度は何の当てつけだって怒鳴られたわ。兄のする事なら何でも賛成するのにね・・。亮介とであったのもそんな頃だった。私が欲しかったもの、全て与えてくれたわ。最初は幸せだった・・でも、満足出来ない・・・・。あいつじゃダメだった。亮介では、あの両親に・・・・っ」
内田咲子の両目からは涙がとどめなく溢れていた。私は彼女が握りしめていたコップをテーブルの上に置き、替わりにハンカチをそっと彼女の手に握らせる。彼女に最初に感じた違和感とファイルの人物が重なった・・・やはりこの子も得られない愛情、埋められない心をを求めてもがいていたのだ。こういう症状をもつ者の大きな特徴のひとつとして家庭の不和、家庭で何か問題が生じている事があげられる。もちろん全てとは言い切れないが、子供時代に負った傷は大人になってからも尚引きずる事が多く、生活習慣や様々な面に影響を及ぼして行く。またその様な子供は、自分が親になってからも、同様に負の連鎖を繰り返して行く事態へと繋がって行く。
こういった負の連鎖を断ち切らない限りは彼女自身もずっと苦しんで行く事になるのだ。私はもう一度改めて、クライアントと向き合いながらカウンセリングをはじめた。
ーー彼女は何をしても家族に認められない自分、そして両親から愛される兄にコンプレックスを抱いている。最初は本橋亮介と付き合う事によって、自分が得られなかった愛情を過剰に得ようとしたが、それは只の身代わりであって、彼女の持つ痛みへの根本的な解決にはなっていない。自分自身を傷つけたその日、彼女は初めて家族からの関心を得た。だが、傷が治って帰ってきた彼女にかけられた言葉は只一つ、家名を傷つけるな、兄の足手まといになる様な事をするなとの一言だった。
それを機に、尚本橋への異常とも言える束縛が強まる。もっと自分を見て欲しい、自分だけを愛して欲しい。本橋との負の共存を断ち切れず、だがもっと自分を満足させる事のできる新たな相手へとターゲットを定めた。それが藤堂だ。彼は彼女がもつコンプレックスを一時的に払拭させるだけのものを持っていた。
彼女の自尊心を満足させるだけのお金と経歴。そして彼女は虐げられていた家族への対抗心とともにそれを全面に打ち出した。もっと自分を見て欲しい、認めて欲しい。自分の兄よりも高学歴で収入のある男を連れて行けば家族は今度こそ自分を認めてくれるのではないか・・と。
だが、それも結局無駄だった。彼女が酒を浴びる程飲み、意識をなくしたその日、内田咲子はそれを悟ったのだ。