カルテ1:縛る女11
もちろん彼女を病気だと決めつけるのは早計だ。彼女のような女性は少なからず沢山いる。病名を付けるにも、もちろん総合的な判断が必要である。だが私はこういう仕事をしていてどうかとも思うのだが、訪れるクライアントに簡単に病名を伝える事はできるだけ避けている。総合的な要素を含めて判断してから後、それを伝える。
なぜそうするのか・・という理由は幾つかあるのだが、精神病という名の下に自分に陶酔するものや、ちゃんと向き合えば解決できる事柄を薬で逃げるのを防ぐため、自分の事を精神病だといって病院にやってくる人の中で本当にそうなのか、それとも甘えや他のものからきているのかを診断するためにはかなりの経験が必要だ。もちろん出来るだけ誤診は避けたいし、こういった心の問題は特にデリケートな配慮が必要になってくる。
夕暮れの日差しがブラインドを隔てた隙間から入り込み、部屋を照らし出していた。
「今日はそろそろ帰るか・・・。」私は立ち上がって背伸びをした。僕のクリニック兼事務所は5時に閉める事にしている。もちろん、何か緊急があれば、事務所の電話から私の携帯にかかってくるようになっているのだが、こういう仕事をしていると、実際のところ電話での相談は24時間昼夜を問わずかかってくる。
アメリカにいた頃も、クリニックは5時に閉まり、同僚の医者たちは日課の申し送りが終わるといそいそと家に帰っていった。余計なお世話だと何度か思ったが、よく同僚達に言われたものだ。「なんだ、トシ、まだ独身なのか?誰かステディな子はいないのかい?僕たちはこういう仕事をしているからこそ、家族との交わりが大切なんだよ。」
実際彼らは確かに忙しい中にあっても家族を大切にしているようだった。家族が集まるサンクスギビングデーやクリスマスなどの休日には、必ず私にも声をかけてくれた。ターキー(七面鳥)の焼ける匂いにラズベリーソース・・今となっては懐かしい思い出だ。
ふいにカツン カツンと音がした。三村君のヒールの音だ。彼女の歩き方には独特の癖があり、ヒールを履いていると特によく響くのだ。サンダルを履いていたらきっとぺたぺたと音がなるに違いないと一人ほくそ笑む。
「何を笑ってるんですか?センセ。向こうの応接室は掃除してきました。こちらもさっさと片付けてしまうので、そこどいて下さい。あ!またコンピューターの上でポテチ食べましたね?!あれだけカスをばらまくから止めてくれって言ってるのに・・・」
確かに私の専用のM@Cのキーボードには先ほどまでファイルを見ながら食べていたお菓子のかすが散らばっていた。
ああ・・・また三村君にしかられてしまった。1週間の内で三村君にしかられる回数は結構多い。また目くじらを立てて掃除を始める彼女を見て私は小さく息を吐いた。
「いいよ、三村君、私が片付けておくから、君はもう帰りたまえ。」
「何いってんですか。センセに掃除を任せたらまた明日私の仕事が増えるだけです。すぐに終わりますから大人しく其処で座っておいてください。」
「ハイ・・。」やはり触らぬ神にたたり無しだ。私のデスクの周りを綺麗に拭き取り、掃除を終えた彼女が清々しい顔で帰ってきた。
「じゃ、センセ、また明日。そうそう、寄り道しないでちゃんと帰るんですよ?!」
どうも母親か学校の先生を思い出してしまう。三村君はカツカツとヒールの音を高らかに鳴らしながら出て行った。私も帰るとするか。ブラインドを閉め、電気を消し、事務所に鍵をかけると、私は外へでる。三村君・・・は待ってるはずはないか。肩を軽くすくめて私は駅に向かって歩き出した。