カルテ2:空(から)24

空を見上げて先生が笑った。「綺麗だねえ、見てご覧、この夕焼けの色!」
言われて目を上げると確かに其処には美しい色合いの夕日が目に飛び込んで来た。今まで幾度か付き合って来た女と夜景を見たり、夕日を見たりという事はあったが、別に特別綺麗だとかと思った事はなかった。ましてや、こうして男と二人で夕焼けを眺める日が来るなど今までの自分なら考えもしなかった事だ。おかしさがこみ上げて笑ってしまう。
「あれ、和田さん、良い顔して笑うんですね。最初に事務所に来たときは、目が全然笑ってなかったのに。今日は、楽しんで頂けましたか?」くすくす笑いながら先生が言った。

そんな顔をしていたのだろうか、俺は・・?「ああ、思った以上に楽しかったよ・・。」少し気まずそうに言い返す。

「知っていますか?人間、4方を塞がれて出口がないと諦めているときでも天は必ず開いているんですよ。私は何かに行き詰まった時には空を見上げて思うんです。まだ諦めるには早い、まだ天は私に向かって開いているってね。逃げる事は容易いですが、それでは根本的に何の解決にもなりませんしね・・。今までは意識すらしていなかったかもしれませんが、貴方が自分のしがらみを受け入れた瞬間からそれらは貴方の一部になるんです。

私はね、こう思っているんです。感情をまったくもたない人間などいません。人間は生まれ落ちた瞬間から、誰でも愛されて、色んな感情を得て、親や周りの色んな人達との交流から学び、考えて"選ぶ"権利を与えられているんです。昔親からまったく言葉もなく、愛情ひとつかけられずに育った少女がいました。その子は身体も弱く、泣きも怒りも、喜びも無い無表情のまま、一切言葉を喋る事無くある病院に収容されました。その少女を担当した医者はどうしたと思います?」

「さあ・・?」

「その子をベットごと、病院のロビーに移して、ベットにこう書いておいたんです。『私の名前は○○です。私を見たら、私の名を呼び、話しかけて、抱きしめて下さい。』病院にいる看護士や病人の見舞いに訪れた人々はその子供をみていつも笑って彼女の名を呼び、話しかけ、時には抱きしめる。それから数ヶ月のうちにその子は表情を取り戻し、片言の言葉を話しだすようになりました。私が何を言いたいかわかりますか?」

「・・・・。」

「最初に貴方が私の元を訪れたのは、まあ三村君との出会いもあり、偶然だったのかもしれませんが、あなたは無意識にでも空っぽだと思っていた自分を変えたいと願っていたのかも知れない・・。暇つぶし・・になるかもしれないし、ですがどんな理由にしろ貴方は一歩踏み出しました。留まっている事を良しとせず、一歩前へ。それは小さな事のように見えて実はとても大きな事です。

この少女のように私たち人間というものは、良くも悪くも、周りの人間にとても影響されやすいんです。感情という宝をもって生まれて来たのにそれを無いもののように扱うのはもったいないです。若い世代の子達の中にはわざと表情を無くしてクールというんですか?そういう風に見せかけようとしている人達もいますが、私は、感情をだせるという事はとても素晴らしい事だと思っているのですよ。そうやって素直に笑う事ができるあなたが空っぽなはずありません。私はこれだけは断言できますよ。」

「・・・男に正面向かってそんな臭い台詞吐かれるなんて・・・俺も吃驚だよ。」照れ隠しに俺はぶっきらぼうに言い切る。失礼ですね!と言いながら彼は笑っていたが、あれから一晩経ってスポンジが水を吸い込むかのように彼の言葉はしっくりと俺の中に入って来た。
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甘いココアを飲みつつ、俺はおふくろに言った。
「俺、モデルの仕事辞めるよ。まだ将来どうしたいのかはっきりと決まった訳じゃないけど、ひとつやりたい事見つけたんだ。」

おふくろは吃驚したように俺を見て言った。
「・・・あなたが笑った顔を見たのは何時ぶりかしら・・・。」そして感極まったようにぽろぽろと涙をこぼす。おふくろにも色々と思う事があるのだろう。親父とも、これから少しずつ話をしようと思う。そして俺はある決意を胸に家を出た

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