カルテ2:空(から)19

「まあなあ・・、あの時代に両親と日本を捨ててアメリカに渡るっていうのはほんまに覚悟が必要やった。今と違ってもっと日本人に対する風当たりも強かったしなあ。もちろん旦那も必死で守ってくれとったけど、言葉もようわからん、旦那がおらんかったら一歩も外に出られへん状況でな。毎日家とポストの往復だけの日が続いとった。」

「よくそれで我慢できたんだな?」俺が吃驚したように聞き返す。
「自分で決めた事やったからな。うちはうちの意思でアメリカ人の旦那に嫁いだんやから、文句は言われん。それでも子供ができてからは随分子供達に慰められた。昔、私みたいに戦中や戦後にアメリカさんに嫁いだ日本人はみんな多かれ少なかれ色んな経験してきてるんよ。今の若い子らは、なんかあったらすぐ離婚しはるけどな。昔はそういう訳には行かんかった。」そう言って美津子は紅茶を一口飲んだ。
「うん、うまいなあ、この紅茶、オレンジピールの香りがようしてるわ。」

「美津子さん・・はあの先生とはどういった関係?」俺は聞きたかった事を口に出す。
「ああ、センセとはな、うちの旦那がまだ生きてた頃にボストンであったんや。そりゃあ、昔からええ男でなぁ、一人で留学してはって、たまたま大学のクラスで同じクラスをとったのが知り合った初めや。あの先生は聴講生やったけどな。」
「へえ、あの先生、留学なんかしてたんだ・・・。てか同じクラスってどういう意味?!」
「ああ、うちは60歳から4年間大学に通ってたからな。若い子らにまじってよう勉強したで?あんたも今大学生なんやろ?大切にしいや、今の時間を・・・せっかく親からお金だしてもらって勉強できるんや、やっとかんと損やろ?」

「60から大学って・・・ありえね〜!」和田は大げさに上を仰いでそれから、おいしそうにケーキを口のに運ぶ美津子の姿を見ていた。
「・・・なんで、先生は俺と美津子さんを逢わしたんだろうな・・?」
美津子は小さく呟いた和田の独り言とも思える言葉に耳を傾け、それからゆっくりと言った。
「ああ、先生は、あんたに足りないものを私が持っているから、それをあんたとシェアしてほしいと電話で言っていたよ。」
「俺に足りないもの?」
「そうや、でも、うちが思うにあんたは本当はそれを持ってるんやけど、今は鏡が曇っとるみたいにそれが見えてない。あんた自身、本当はそれに気がついているけど目をそらしてるんや・・・違うか?」

「・・・・。」
「まあ、でも今日はこうして色々、付き合ってくれたんも感謝してるんやで?健司、あんたは本当にええ子やな。」
何故か心が苦しくなった。こういう風に人に褒められた事は今まで一度もない。頭が良いとか、かっこいいとかそういった上辺の事でなく、初めて自分の中身を評価された様な・・くすぐったいようで何故か温かい、不思議な気持ちだった。最初は嫌々、引っ張られついて来たが、最初の嫌悪感は全て消え去り、今は純粋にこの目の前にいるばあちゃんとの話が面白いと感じている自分がいることに驚きを隠せない。先生はこんな自分を見越してこのばあちゃんと出会わせたのか、それとも他にもっと意味があるのか・・俺は淡々と考えていた。

その後も、アメリカの大学の話や、俺が今まで聞いた事のないような話をいっぱいしてくれた。自分の周りにいる女達とはまったく質の違う話。アメリカでコミュニケーションを専門としていたと言っていたが、それこそ、話に引きずられるように魅力的な会話が続いた。
確かにこの人は自分に無いもの・・?を持っているのかもしれない。70を過ぎようとする彼女がこんなにも輝いている秘密を俺はもっと知りたくなっていた。

5時に言われた通り、カフェテリアで待っている先生の元に戻った。
「先生、今日は本当にこの子をつれてきてくれてありがとうな。ほんまに楽しい1日やったわ。」

「佐藤さん、今日はありがとうございました。楽しんでもらえて良かったです。」そういって先生は俺のほうをちらっと見やった。俺は何か言いたいのに言葉がでてこなくて、じっと黙り込んだまま二人を見ていた。
「健司、今日はばあちゃんの我が侭に付き合ってくれてありがとう。」そういってばあちゃんがぎゅっと俺を抱きしめた。何故だかわからないが俺の目から涙が溢れた。
「和田さん、もしまた、機会があれば、是非佐藤さんと逢ってあげて下さい。」先生はにっこりと笑ってそう言った。佐藤さんと別れて、老人ホームを出ると、駅へと続く20分の道のりを二人で黙って歩いた。駅へつくと、先生がもう一度言った。

「和田さん、今日は本当にありがとう。あんなに喜んでいる佐藤さんを見たのは久しぶりです。ここ日本では、若者と接する機会が少ないですしね。」
「俺に足りないもの・・・埋められるのかな?」
「ええ、きっと・・・。大丈夫ですよ。」
俺は何かちょっと清々しい気分で家へと帰った。その時には家であんな事が起っているなんて露にも思っていなかったのだ.

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